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2019年5月25日土曜日

アマゴの放流


2019年5月25日、子供達によるアマゴの放流が行われました。十年程前までは毎年行われていましたが、途中、茂畑地区での農地造成工事による水の濁りが酷くなり、稚魚の生存するには難しい状態になった為、中断されていました。
この造成工事も終了し、川の濁りも無くなったために、ここ2、3年、復活しています。

この日、4班の田中さんが御殿場まで行って持ってきてくれたアマゴの稚魚を子供達が波多打川に放流しました。
結構大きいアマゴです


今年は例年になく大きな稚魚で、これならかなりのアマゴが生きのびて、大きく育って呉れるかも知れません。



2018年5月17日木曜日

古い書類の片付けも残り少し

何処までが必要な物でどこからがゴミなのか?
自治会の倉庫に保管?されていた古い書類の片付けも残りが段ボール箱3つ程になりました。結局大した書類は残っていませんでしたが、そんな中にも幾つかはデジタル化して残しておいた方がいいかも?と思えるものが何点か見つかりました。

残す事の必要性
こうした物を残して、将来何になるのか?と考える人も居るのかもしれません。しかし、自分の住む地域の歴史を後世に残して行く事は必要な物なのだと考えます。これまでの歴史は紙に書かれた古文書等で何とか知る事が出来ましたが、現在では紙に書かれた物など殆ど無く、またあったとしても、それを後世に残す方法を考えてみても難しいものがあります。
結局、今できる手段は、残すべき物はデジタル化してネット上に保存するといった事になってしまいます。

資料をスキャンしてデジタル化してネット上のサーバーにアップロードされた書類や写真などを改めてみてみると、この書庫(アーカイブ)が何時の時代まで継続して残っていてくれるのか?と不安にもなりますが、これはこれから先維持管理していって呉れる若い人達への引き継ぎに掛かっています。

まずは若い人達に渡さねば!




2018年4月2日月曜日

庚申塔建立の縁起

見出しのような書類が出てきました。これには発起人や、賛同者の名簿などが書かれていました。
庚申塔は60年に一度巡ってくる庚申の年に建立される記念碑のようなもの。

昭和55年(1980)が庚申の年で、この年に広瀬においては2基目ととなる庚申塔が建立されました。では一つ目はいつだったのかと調べてみたら江戸時代の宝暦2年(1752)に建立されていましたが、この年では60年周期で巡ってくる庚申の年とずれが出てしまいます。しかしこれは何かの理由があったのでしょう。

庚申塔建立の縁起と書かれたこの文書には庚申塔建立についての収支も残っていました。
それによれば庚申塔自体は石とこれに彫る字の彫代も含めて25,000円程で済んでいます。
あまりの安さにチョット驚きですが、今から三十数年前の相場はこんなものだったのでしょうか。

次の庚申の年は2040年
果たして22年後の庚申の年、この時、前回ののように皆が纏まって、新しい庚申塔を建立出来るのでしょうか。
<庚申塔建立の縁起のpdfファイルはこちら>

2018年4月1日日曜日

広瀬農道計画書

広瀬地区の農道工事は昭和30年代末期から始まりました。その初期の事業計画書が見つかったのでpdfファイルにして保存しました。 その当時の工事単価なども分かり、見ていてもそれなりに面白いものです。
ミカン栽培の好景気に押されて始まった農道工事でしたが、昭和50年代初頭までに完成した農道は最終的に12,000mを越える総距離になりました。
しかし、昭和47年のミカン大暴落以降、後継者もいなくなり、ミカン園の荒廃も進んでかなりの面積を占めるようになってきました。特に平成元年に実施されたミカンの減反政策により多くのミカン園が廃園となりました。

それから約40年、農道そのものは市に移管され、広瀬土地改良区は農道の管理組合になりました。
現在の一番の問題は、先人たちが将来の為に造った農道でしたが、これを利用する農家そのものが10軒程度になってしまった事です。時代の流れとはいえ、この変化の激しさには驚くばかりです。
<農道関連のファイルはこちら>

2018年1月30日火曜日

広瀨ジオラマ

西側の山からの広瀨
地図の入手

平成13年3月から9月にかけ、ほぼ毎晩の作業で作り上げた広瀨の立体地形モデルです。

前々から作ってみたいと思ってはいたものの、詳細な(大縮尺)の地図が無いために手を付けられないままでした。

ある時、市役所の都市計画課に行けば2500分の1の地図があると聞き、ダメモトで行って見たところあっけない程簡単に地図が手に入りました。

この地図をコピーセンターに持ち込み、必要なところだけをA0の用紙一杯にコピーして貰い、ここからが本格的な広瀨ジオラマの製作となりました。

スチロールの入手とカット

まずは知り合いの発砲スチロールの工場で大きさはA0、厚さ10ミリで30枚切って貰いました。
予定しているジオラマの範囲内で一番高い標高は310m最低部で30m程でしたから、標高10mを10mmとすれば30枚あれば十分足りるはずです。

A0の地図に10m事の等高線を分かるように赤線にしてこの線をスチロール板に写し、この各等高線事に切ったスチロールを積み重ねていけば自然に広瀨の地形が出来上がっていきます。

高さは縮尺千分の1、水平方向は縮尺1350分の1になり、縦方向へ少しデフォルメされた形になります。
この水平、垂直方向の比を「比高」と言うのだそうですが、広瀨のモデルの場合は比高1.35という事になります。
これくらいの比高でいつも見慣れている風景のイメージに近くなりました。
比高1.0では山の感じが岡のように見えてしまい、見慣れた景色とはイメージが変わってしまいます。
富士山は高い山ですが、朝霧高原から御殿場駅までの距離はおおよそ34Kmあります。
この中に富士山頂がありますが、高さは3.776Km。
立体地形モデルを作ろうとしたら富士山の高さは距離の十分の一程度しか無い事になります。
やはりそれなりに見えるようにするには高さを少しだけ誇張するほうが良いようです。
広瀨のモデルの場合はこの点は考えてやったわけではなく、たまたまスチロールの厚さは10mを1cmに、横方向は紙の大きさのA0、とこの2つの関係で比高1.35になったと言うわけです。

等高線毎に積み重ねる

この積み重ねた段々を紙粘土で埋めて曲線にし、表面をなめらかにするために、ここからはサフェーサーを吹きつけ、これを研ぐ、といった作業の繰り返しです。これを20回ほど繰り返したら大分滑らかな曲面になりました。

道路を削り家を造る

つぎは道路をルーターで削り、全体に着色し、宅地部分には土を敷き(鉄道模型用の土)草(鉄道模型用のスポンジを難色か混ぜ、これをミキサーで荒く挽いた物)や、木(スポンジを千切った物)を植栽すればあとは建物の製作になります。これは一軒一軒写真を撮り、これから窓やドアー、屋根もそれなりに作っていきました。 かなり細かい作業が続きますが、毎晩が楽しい時間でした。

家の配置とケース作り

最終的には百数十個の建物を配置し、ケースもアクリル板で自作。この台は地元の大工さんが寄付してくれました。

今、改めて見てみると、旨く作ったものだと自画自賛。

ただ、悲しい事は、この時一緒に作った相棒が若くして逝ってしまった事です。
今、自治会館に展示されているこの立体模型を見るたびに、彼と夢中になって作っていた時の楽しかったあの半年間を思いだします。

2018年1月26日金曜日

庵原駅伝大会

中学校グランドをスタート、ゴールにしていた頃のスタート風景
庵原地区で毎年行われている駅伝大会のタイム集計です。
1998年から2018年までの20年分を保存してあります。

この駅伝大会も今年(2018)で27回となっていますから、第1回大会は1991年になります。
最初の頃の7回分の資料は残念ながら欠けてしまっています。
自分が集計に携わったのは1996年の大会からだったので、自分が集計した分の中では2回分が欠けています。
これは最初の2年間はLotus 123 を使った集計だったためにデータが何処かに行ってしまったようです。

スタートとゴールになるメイン会場も2017年からは、それまでの中学校グランドから庵原球場に変わっています。

残念な事にこの3年ほどは広瀨チームは棄権となってしまっています。また何とか選手を集めて参加してほしいものです。

せまいがひろせ

広瀨洒落倶楽部(ひろせしゃらくらぶ)で2000年の5月から2010年の5月までの10年間発行したミニコミ誌です。

A3版裏表2面の紙面で、年間5回のペースで発行していましたが50号をもって休刊となりました。

その後1年のブランクをおき、広瀨に嫁いで来た若い?奥さん方により2011年2月に51号として復刊しました。しかし、忙しい身の女性でもある事から、52号で再び休刊となり現在に至っています。

一時は100号までを目指した「せまいがひろせ」でしたが、やはり後継者が出てきてくれない事には継続は難しいものになってしまいます。

この「せまいがひろせ」の全号をpdf化して公開しています。

このフォルダにある "s-idx.xls"は全号の発行年と見出しのインデックスファイル(EXCEL)です。

「せまいがひろせ」閲覧はこちら