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2018年1月30日火曜日

広瀨ジオラマ

西側の山からの広瀨
地図の入手

平成13年3月から9月にかけ、ほぼ毎晩の作業で作り上げた広瀨の立体地形モデルです。

前々から作ってみたいと思ってはいたものの、詳細な(大縮尺)の地図が無いために手を付けられないままでした。

ある時、市役所の都市計画課に行けば2500分の1の地図があると聞き、ダメモトで行って見たところあっけない程簡単に地図が手に入りました。

この地図をコピーセンターに持ち込み、必要なところだけをA0の用紙一杯にコピーして貰い、ここからが本格的な広瀨ジオラマの製作となりました。

スチロールの入手とカット

まずは知り合いの発砲スチロールの工場で大きさはA0、厚さ10ミリで30枚切って貰いました。
予定しているジオラマの範囲内で一番高い標高は310m最低部で30m程でしたから、標高10mを10mmとすれば30枚あれば十分足りるはずです。

A0の地図に10m事の等高線を分かるように赤線にしてこの線をスチロール板に写し、この各等高線事に切ったスチロールを積み重ねていけば自然に広瀨の地形が出来上がっていきます。

高さは縮尺千分の1、水平方向は縮尺1350分の1になり、縦方向へ少しデフォルメされた形になります。
この水平、垂直方向の比を「比高」と言うのだそうですが、広瀨のモデルの場合は比高1.35という事になります。
これくらいの比高でいつも見慣れている風景のイメージに近くなりました。
比高1.0では山の感じが岡のように見えてしまい、見慣れた景色とはイメージが変わってしまいます。
富士山は高い山ですが、朝霧高原から御殿場駅までの距離はおおよそ34Kmあります。
この中に富士山頂がありますが、高さは3.776Km。
立体地形モデルを作ろうとしたら富士山の高さは距離の十分の一程度しか無い事になります。
やはりそれなりに見えるようにするには高さを少しだけ誇張するほうが良いようです。
広瀨のモデルの場合はこの点は考えてやったわけではなく、たまたまスチロールの厚さは10mを1cmに、横方向は紙の大きさのA0、とこの2つの関係で比高1.35になったと言うわけです。

等高線毎に積み重ねる

この積み重ねた段々を紙粘土で埋めて曲線にし、表面をなめらかにするために、ここからはサフェーサーを吹きつけ、これを研ぐ、といった作業の繰り返しです。これを20回ほど繰り返したら大分滑らかな曲面になりました。

道路を削り家を造る

つぎは道路をルーターで削り、全体に着色し、宅地部分には土を敷き(鉄道模型用の土)草(鉄道模型用のスポンジを難色か混ぜ、これをミキサーで荒く挽いた物)や、木(スポンジを千切った物)を植栽すればあとは建物の製作になります。これは一軒一軒写真を撮り、これから窓やドアー、屋根もそれなりに作っていきました。 かなり細かい作業が続きますが、毎晩が楽しい時間でした。

家の配置とケース作り

最終的には百数十個の建物を配置し、ケースもアクリル板で自作。この台は地元の大工さんが寄付してくれました。

今、改めて見てみると、旨く作ったものだと自画自賛。

ただ、悲しい事は、この時一緒に作った相棒が若くして逝ってしまった事です。
今、自治会館に展示されているこの立体模型を見るたびに、彼と夢中になって作っていた時の楽しかったあの半年間を思いだします。

2018年1月26日金曜日

庵原駅伝大会

中学校グランドをスタート、ゴールにしていた頃のスタート風景
庵原地区で毎年行われている駅伝大会のタイム集計です。
1998年から2018年までの20年分を保存してあります。

この駅伝大会も今年(2018)で27回となっていますから、第1回大会は1991年になります。
最初の頃の7回分の資料は残念ながら欠けてしまっています。
自分が集計に携わったのは1996年の大会からだったので、自分が集計した分の中では2回分が欠けています。
これは最初の2年間はLotus 123 を使った集計だったためにデータが何処かに行ってしまったようです。

スタートとゴールになるメイン会場も2017年からは、それまでの中学校グランドから庵原球場に変わっています。

残念な事にこの3年ほどは広瀨チームは棄権となってしまっています。また何とか選手を集めて参加してほしいものです。

せまいがひろせ

広瀨洒落倶楽部(ひろせしゃらくらぶ)で2000年の5月から2010年の5月までの10年間発行したミニコミ誌です。

A3版裏表2面の紙面で、年間5回のペースで発行していましたが50号をもって休刊となりました。

その後1年のブランクをおき、広瀨に嫁いで来た若い?奥さん方により2011年2月に51号として復刊しました。しかし、忙しい身の女性でもある事から、52号で再び休刊となり現在に至っています。

一時は100号までを目指した「せまいがひろせ」でしたが、やはり後継者が出てきてくれない事には継続は難しいものになってしまいます。

この「せまいがひろせ」の全号をpdf化して公開しています。

このフォルダにある "s-idx.xls"は全号の発行年と見出しのインデックスファイル(EXCEL)です。

「せまいがひろせ」閲覧はこちら


2018年1月23日火曜日

広瀨写真クラブ

秋まつりでの吾亦紅との共同作品展示

広瀨地区には句会があるのは紹介しましたが、もう一つ「広瀨写真クラブ」という会があります。
この発足年はあまり記憶に無いのですが、2005年頃ではなかったかと思います。当初は女性会員も含め10人程の会員がいましたが、現在アクティブ会員は7人。うち2名は地区外の会員です。

月一回の例会を行い、この時に課題に沿った作品を持ち寄り「あーでもない、こーでもない」と皆で勝手な評をして楽しんでいます。

課題を決めるとなかなか撮るのも難しくなりますが、同じ課題で人の作品と較べられるのは、見方によって随分と捉え方も違うものだと、これは結構勉強になります。
とは言ってももう皆さん高齢者、分かってもなかなかそれが実行に結びつかないもどかしさも感じてしまいます。

でもまぁ、楽しんでやっていけるのが一番でしょう。

また、年に1,2回、外に出掛けての撮影会も行っています。




句会「吾亦紅」

秋まつりでの作品の展示
広瀨地区には平成17年に発足した「吾亦紅」という句会があります。

平成16年に広瀨に越して来られた方が俳句の先生という事を聞き、当初は当時発行していた地区のミニコミ誌「せまいがひろせ」への俳句の記事をお願いしたのが句会発足のきっかけとなりました。

「どうせなら句会を作りましょう」という事で、平成17年にはこの方の主宰で「吾亦紅」が発足し、毎月一回の句会を行ってきました。

これは発足から13年目となる今でも継続して行われています。また、秋のお祭りの時には作品の展示等も行っています。

句会の名前「吾亦紅」は主宰に付けて頂いたものと記憶しています。
吾亦紅の花は地味で目立つようなものではありませんが、「吾もこうありたい」という思いを込めて名付けられた花名といわれています。

発足当初は20人近い会員がいた句会「吾亦紅」でしたが、当初より会員は高齢な方が多く、年と共に会員数も減少してきています。

最近では地区外から参加している会員の方が多く、広瀨地区内の会員は先細り状態ですが、継続して活動していてくれればそのうち、歳をとった地区内の人達がまた会員になってくれるのかも知れません。

それまで主宰には何とか頑張って欲しいと思います。
「せまいがひろせ」が発行されている間、句会報はこの紙面に掲載していましたが、これが休刊となってからの句会報は主宰から全回分を提供して頂き、データベースに保存しました。



2018年1月18日木曜日

広瀨災害避難マニュアル

地区内に災害が発生した場合の避難手順等についての手引き書です。

全戸に配布してありますが、作成年が平成23年という事で、その当時とは広瀨全体の人口構成も変わってきています。
そのためにそろそろ見直すべき所も出てきており、これは早急に対応すべき事と思います。

地区の自主防災会の活動も12月に行われる避難訓練の為の自主防災になって来てしまっています。
せめて、自主防災の備品チェック等は毎年行い、必要な物は揃えていく事も大事な事と思います。すでに前回購入した電池等も購入から9年が経過し、ほぼ電池としての寿命は尽きていると思われます。

こうしたものは無駄になって正解で、あって良かったでは困りますが、イザとなった時役に立たないのでは本当の無駄になってしまいます。

「天災は忘れた頃にやってくる」日頃の備えが一番かと!




2018年1月16日火曜日

ふれあいいはら

昭和58年1月の創刊号表紙
庵原地区には昭和58年1月1日に創刊された「ふれあいいはら」という地区広報誌があります。最新号は平成30年1月号で422号となる歴史のある地区の広報誌です。昨年、この全ての号をデジタル化しサーバーに保存してあります。当然の事ながら見て貰うためにやった作業なので早くこれを公開して大勢の人にこれまで編集に携わってきた人たちの苦労も知って欲しいと思うのですが、いろいろと事情があり未だ一般には知らせていません。
そうはいっても個人のブログでこれを紹介するのは問題なだろうと、こちらからリンクを張りました。
右のリンクからもジャンプできますがダイレクトには

ここをクリック!

2013年1月号よりはそれまでのモノクロ印刷からカラーになり、見た目にも華やかなものに生まれ変わりました。

広瀨歴史浪漫


2000年に発行された杉山久夫氏の「広瀨500年部落史」を参考に、広瀨地区内に残る古写真を集めた写真集です。「広瀨500年部落史」をビジュアル化した歴史写真集とも言えます。
この写真集の正式名称は「写真が語る 広瀨歴史浪漫 明治・大正・昭和100年
各戸から古写真を提供して貰い、その写真を土台にして完成させた写真集です。こうした写真はこれから増えて行くことは無く、捨てられて姿を消していく運命にあります。少しでも残っているうちに写真集として残そうとの思いから洒落倶楽部で始めた企画でした。あと10年早かったらより多くの写真を掲載できたのかもしれません。そう思うと少しばかりの悔しさも残ります。
今はデジタルカメラの全盛時代。写真が撮られる枚数はフィルムの頃に較べれば一桁も二桁も違う枚数となっているのでしょう。しかし、これから50年後、100年後、平成の今の時代を残した写真が一体何枚残っているのでしょうか。
この写真集は少しでも後世に残る可能性を上げようと、市立図書館、県立図書館への寄贈もして、そちらでの閲覧も可能となっています。

閲覧はこちら

山茶花


広瀬地区の女性だけで昭和34年に発行された「山茶花」という文集があります。我が家のリフォームに伴う片付けの中で偶然見つけたものなのですが、これを読んでみるとこの文集に投稿した方は既に殆どの方が他界されており、今は亡きこの人達が、女目線でのその当時の問題点や、家庭内の問題、子どもの教育に関わる問題、また、これからの時代への希望など、かなり思い切った意見を述べています。

この文集に刺激を受け、平成15年に「広瀨洒落倶楽部」で発行したのが「平成版 山茶花」でした。この発行までには十分な時間を掛け、まず昭和34年版の山茶花を広瀨の全戸数分コピーをとり、これを配布して読んで貰った上で、平成版「山茶花」への投稿をお願いしました。平成版の山茶花は女性に限らず老若男女問わずの形で進めました。最終的には、当時広瀨の全戸数68戸の中から40数編の原稿が寄せられたのですから、一つの事業としては大成功だったと思います。自分たちの母親が残した文章を読んで、平成の時代に生きる自分たちも次の世代に言葉のタイムカプセルとして今度は自分の子どもや孫達に残したいとと思ったのでしょう。
昭和34年版「山茶花」

平成15年版「山茶花」