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2021年4月20日火曜日

広瀬トンネル出口の歩道が少しだけ改善されました。

 昨年春投稿した広瀬トンネル横砂側出口の歩道はその後、少しだけ改善が見られ、以前よりは危険も減ったように感じます。

中学生は自転車通学しているので、ここから道路に出るのは場合によってはかなりの危険が伴います。

トンネルから出たばかりのカーブと言う事で、これまでもその危険性は承知していたのですが、ようやくの改善工事となりました。

カーブの頂点で道路に出なければならなかった改修前の状態


一見変わりは無いように見えますが。


白線の外に出ることはなくなりました。


歩道があと数m伸びてくれれば良いのですが....。残念ながら、この矢印看板から先は私有地の為に簡単に済む話でも無いようです。

2021年1月23日土曜日

新型コロナ2021年1月

昨年から始まり、全世界に感染拡大してしまった新型コロナウィルスが未だに収まる気配を見せず、まだまだ拡がっていきそうな気配です。

前回の投稿は暮の12月始めでしたから、そろそろ2ヶ月経とうとしています。
12月2日の感染者累計は152,040人でしたが、その後の感染は急激に広がり2021年1月24日現在では12月から2倍以上に増えてしまい、361,640人。

それに加えて、イギリスで変異したコロナウィルスも国内に入り込んでしまったようで、不安は広がるばかりです。

実際に感染させる可能性のある人の数は一日の新規感染者x発症までの日数という事になるので上記の数値が感染の危険性を表すものでもありません。

大雑把に計算すると5000人x2週間程度と考えると7万人程の人たちが感染させてしまうリスクを負っている事になります。0.05%程の確率にしかならないのですから、一人ひとりが云われたことを確実に守る事が出来れば抑える事も出来るような気がしますが、それがなかなか徹底出来ないようで、こうなると一人ひとりが本当に危機感を持つまで落ちなければダメなのかもしれないと、そんなヤケも起こしそうになってしまいます。

一部の国ではワクチン接種も始まったようですが、その開発期間のあまりにも短かった事に不安を感じてしまう人も多いようで、最初想像した程にはワクチン接種も進まない状況のようです。

1年延期となった東京オリンピック2020も、今年の夏ほんとうに開催できるのか?
1億三千万総不安の中で国のやる事は分かりきった事なのに、一番危機感の薄いのが国を預かる議員さんや、官僚のようです。

日本、いえ世界は一体どうなってしまうのか?



2020年12月1日火曜日

新型コロナウィルスが世界中に蔓延

 久々の更新 

2020年正月、穏やかに年が明けましたが、前回の投稿でも書いたように、1月半ばより、新型コロナウィルスの感染が広がって来ていました。

3月には学校も3週間ほどの臨時休校になり、それが功を奏したのか、5月には減少し始めました。

4月の時点の記事では「日本国内の感染者は9841人で、死者は207人になっています。 日本はまだまだ抑えている方で、世界中では220万人を越え、死亡者数も15万人と、感染拡大は急速に広がっていました。
しかしその後、日本では5月に一旦収まりかけたかに見えた感染拡大も、6月末からは再び増加し始め、夏を過ぎ、秋も過ぎ、冬に入ろうとしている12月1日現在の状況は以下の通り。


感染マップを見ると、ほぼ全世界に拡がっています。特に酷いのはアメリカで、今年秋行われた大統領選挙も一つの拡大原因になっているのかもしれません。

世界の様子はまるで映画の世界のようです。正体不明の細菌に地球が汚染されるといったSF映画は幾つかありましたが、2020年がそんな映画のような世界になるなんて誰が想像した事でしょう。


4月1日から12月2日までのグラフです。青は感染者累計、オレンジは新規感染者、グレーは入院中の総数です。

現在の様子は第3波と見て良いのでしょう。
現在世界の感染者の総数は6,000万人を越えたようで、6,384万人、死亡者数は148万人、国内の数字は感染者数、151,997人、死亡者数2,203人となっており、まだまだ感染が収まる様子が見えない状況です。

4月の時点では感染者の総数も1万人の大台には届いていませんでしたが、今は1日の新規感染者だけで2,000人を越えてしまっています。

こうした状況の中で感染防止のため、7月に予定されていたオリンピックを始めとし、あらゆる行事が中止となり、自治会に於いても、地区体育大会中止、球技大会中止、自治会の定例常会も一時期中止、敬老会、夏祭り、秋祭りなど、殆どの行事が中止に追い込まれてしまいました。

皆が楽しみにしていた「東京オリンピック」も来年2021年に延期になりましたが、現在のような状況で開催されるのかどうか?

経済の落ち込みも酷いもので、日本はどうなってしまうのか?何も日本に限らず、世界が皆同じ状況ですが......
一体世の中はどうなっていくのでしょう。

ガイヤ仮説

ガイヤ仮説という説があります。これは地球も一つの生命体と考えるもののようで、それによれば、人間は地球を蝕む癌細胞のようなものだといいます。
もしかしたら、癌細胞である人間に対しての地球の免疫作用が働きだした?

2020年4月17日金曜日

新型コロナウィルス感染拡大防止の為全国に緊急事態宣言

1月に中国、武漢で始まった新型コロナウィルスの感染者が世界に広まり、まるで映画のような惨状になってきてしまいました。 

4月17日までの日本国内の感染者は9841人で、死者は207人になっています。 日本はまだまだ抑えている方で、世界中では220万人を越え、死亡者数も15万人を越えてしまっています。 これがいつまで続くのか。

 日本の経済がいつまで持ち堪えられるのか? 世界中が不安に包まれている状況です。 当自治会の通常総会も大勢が集まる事を防ぐ為、今年は書面決議としましたが、こんな事は自治会始まって以来の事なのでしょう。 学校も5月の連休明けまでは休みとなり、とんでもない状況となってしまいました。

2020年4月5日日曜日

広瀬トンネル出口の歩道

危険なまま25年
中部電力の変電所工事の時に、新しく作られた広瀬トンネルは大型車両もすれ違いの出来る、それまでの広瀬隧道とは比べものにならない程通行しやすいトンネルになりました。
トンネル内には上下線に歩道が付き、安全面も考えられた立派なトンネルです。
ところが、この歩道の出口が何ともおかしな事になっていて、これはトンネル開通以来25年程経つというのに、未だにそのままの状況です。

トンネルから出ても歩道は続きますが、この先で突然消失!!

先まで行くと、突然歩道は消えて県道へ出なくてはなりません。しかし、この歩道から県道に出る地点はカーブの頂点にもなる所で、非常に危険な状態です。


いきなり、右への矢印で県道へ出されてしまいます。

緩いカーブですが、トンネルから出てそのまま曲がっていく事になります。
下の写真は道路の下側から上を見た状況。緩いカーブとは言っても、こうしてみると歩道からの出口付近がカーブの頂点である事が分かります。

下から上方向を見た状況

今回、中部電力の変電所の容量アップの工事が始まるようで、通行車両も増えるようです。市の方へお願いし、どのような形であれ、この部分の改修をお願いしています。
事故の起こらないうちに何とかしたいものです。


2020年2月1日土曜日

餘光苑横の県道が少しだけ広くなった!

広瀬地区のかねてからの念願であった、2班の県道拡幅工事は、2020年1月に餘光苑横の道路拡幅が完了し、これで地区内の道路拡幅に関しては全て完了しました。
100%満足のいく結果ではありませんが、家の立ち退き無しで現在出来ることはこれが限度でしょう。

工事前の県道の様子


最終的な舗装前の様子。前のフェンスは必要なさそうです。




必要ないと思われた植木は撤去し、かなりスッキリしました。
道路幅員は1m広がったかどうか?僅かなものですが、数字以上に広く感じます。広瀬の道路拡幅は、将来的にもこれが最後になりそうです。


2020年1月19日日曜日

旧広瀬隧道図面


トンネル工事と同時に進められた、横砂地区に水を送っている畑潅水路の取り入れ口水門。これは今も現役で活躍中です。

広瀬自治会館建設時に旧自治会館内にあった書類等を段ボールに詰め込み、プレハブ倉庫内に保管してありましたが、そのままの状態でそろそろ30年が経とうとしています。
これも整理して捨てるものは捨て、保管すべきものはそれなりにしておかないと皆ダメになってしまいます。
2年程前にこれを家に持ってきて、捨てるものは思い切って捨ててしまいました。
保管されていた殆どのものは捨ててしまって良いものでした。
何とか残したいと思いとっておいた物の中に昭和30年頃、建設された広瀬隧道の建設時の構造図や計画平面図などがありました。
スキャンするには大きすぎて無理なので、カメラで撮影し、補正して良しとしました。
何処かに持ち込めばスキャンして貰えるのかもしれませんが、大凡の様子が分かればいいでしょうから、これで十分です。
スキャンした画像を広瀬アーカイブスの資料庫に保存しました。

https://drive.google.com/drive/folders/0B_Q0awTfzeukR3RzV1J4b2Qxemc


2019年10月11日金曜日

お日待ちの祭りが一日順延

絵灯籠が全戸揃った時代の秋祭り
40年ほど前から秋のお日待ちに合わせて行われていた秋祭り(以前はお日待ちフェスティバル)も途中昭和天皇の崩御から数年途絶えた時期もあったもののその後復活し、復活後から数えても20年以上が経過しています。
復活後に始まった広瀬全戸に参加して貰う絵灯籠も継続しています。

そんなお日待ちの祭りが2019年の今年は、史上最大クラスの台風19号と重なり、早々に灯籠は片付けられました。
長い歴史の中でも、灯籠を本番前に片づけたという記憶はありません。

絵灯籠も、以前は70戸全戸が揃いましたが、空きやも増え、また高齢者だけのお宅も増え、寂しいことですが、徐々にその数も減ってきてしまいました。


2019年7月25日木曜日

2019年 市への要望書提出

今年も牧田市議にもお付き合い頂き、広瀬自治会の市への要望書を提出させて頂きました。
この市議同伴の市への陳情は2004年から続けてきています。

そのお陰もあって、これまでにこちらから市へお願いした幾つかの案件は実現しています。
これらの陳情を数年続けて来ていることから、残る陳情も数少なくなってきています。

これらの市への要望が全て叶うまでは毎年続けていく必要も有るのでしょうが、こうした事も次世代への引き継ぎが必要なはずです。
そろそろ、自分達は一歩引いて、次の世代に引き渡す時期なのかもしれません。

今年の市への要望についてのしりょうは
こちらをクリック

早期の実現を願っています。

2019年7月16日火曜日

女性部月間報告書

今年の女性部は頑張って、毎月、報告書を発行してくれています。
これも資料庫に保存するようにしました。
今年度だけでなく、続いていって呉れればと、願っています。

https://drive.google.com/drive/u/2/folders/16M3uzuE16jgcC2LXOqdR2zOaBHn2oqCE



2019年6月21日金曜日

広瀬地図看板 修復完了


平成15年の秋設置された地図看板は「広瀬洒落俱楽部」が木を切り倒す所から始めた一大事業でした。木の伐採から地図看板完成までは1年4ヶ月を掛け完成した地図看板は立派なものでした。
特に屋根は洒落俱楽部の部員が一生懸命呑んだ缶ビールを1個1個切り開いてアルミ板にし、これで葺いた屋根でした。
この地図看板が「FMマリンパル」で放送された事から、ビールメーカーでも関心を持ち、とうとうアサヒビールの社内報にも掲載されるまでになりました。


それから15年、やはり素人が葺いた屋根では雨漏りも酷く、この数年この地図看板の修復作業を行ってきました。
平成12年 垂木、野地板を交換し、屋根はステンレス板にしました。
平成17年 柱の根元部分がかなり腐ってしまい、強度が保てなくなった為に、土台部分の改良。
平成18年 地図看板全体への防腐、防虫処理。名札板を新品に交換。

平成19年 全ての修復が完了。これでまた暫くは生き長らえそうです。

2019年5月25日土曜日

アマゴの放流


2019年5月25日、子供達によるアマゴの放流が行われました。十年程前までは毎年行われていましたが、途中、茂畑地区での農地造成工事による水の濁りが酷くなり、稚魚の生存するには難しい状態になった為、中断されていました。
この造成工事も終了し、川の濁りも無くなったために、ここ2、3年、復活しています。

この日、4班の田中さんが御殿場まで行って持ってきてくれたアマゴの稚魚を子供達が波多打川に放流しました。
結構大きいアマゴです


今年は例年になく大きな稚魚で、これならかなりのアマゴが生きのびて、大きく育って呉れるかも知れません。



2018年5月17日木曜日

古い書類の片付けも残り少し

何処までが必要な物でどこからがゴミなのか?
自治会の倉庫に保管?されていた古い書類の片付けも残りが段ボール箱3つ程になりました。結局大した書類は残っていませんでしたが、そんな中にも幾つかはデジタル化して残しておいた方がいいかも?と思えるものが何点か見つかりました。

残す事の必要性
こうした物を残して、将来何になるのか?と考える人も居るのかもしれません。しかし、自分の住む地域の歴史を後世に残して行く事は必要な物なのだと考えます。これまでの歴史は紙に書かれた古文書等で何とか知る事が出来ましたが、現在では紙に書かれた物など殆ど無く、またあったとしても、それを後世に残す方法を考えてみても難しいものがあります。
結局、今できる手段は、残すべき物はデジタル化してネット上に保存するといった事になってしまいます。

資料をスキャンしてデジタル化してネット上のサーバーにアップロードされた書類や写真などを改めてみてみると、この書庫(アーカイブ)が何時の時代まで継続して残っていてくれるのか?と不安にもなりますが、これはこれから先維持管理していって呉れる若い人達への引き継ぎに掛かっています。

まずは若い人達に渡さねば!




2018年4月2日月曜日

庚申塔建立の縁起

見出しのような書類が出てきました。これには発起人や、賛同者の名簿などが書かれていました。
庚申塔は60年に一度巡ってくる庚申の年に建立される記念碑のようなもの。

昭和55年(1980)が庚申の年で、この年に広瀬においては2基目ととなる庚申塔が建立されました。では一つ目はいつだったのかと調べてみたら江戸時代の宝暦2年(1752)に建立されていましたが、この年では60年周期で巡ってくる庚申の年とずれが出てしまいます。しかしこれは何かの理由があったのでしょう。

庚申塔建立の縁起と書かれたこの文書には庚申塔建立についての収支も残っていました。
それによれば庚申塔自体は石とこれに彫る字の彫代も含めて25,000円程で済んでいます。
あまりの安さにチョット驚きですが、今から三十数年前の相場はこんなものだったのでしょうか。

次の庚申の年は2040年
果たして22年後の庚申の年、この時、前回ののように皆が纏まって、新しい庚申塔を建立出来るのでしょうか。
<庚申塔建立の縁起のpdfファイルはこちら>

2018年4月1日日曜日

広瀬農道計画書

広瀬地区の農道工事は昭和30年代末期から始まりました。その初期の事業計画書が見つかったのでpdfファイルにして保存しました。 その当時の工事単価なども分かり、見ていてもそれなりに面白いものです。
ミカン栽培の好景気に押されて始まった農道工事でしたが、昭和50年代初頭までに完成した農道は最終的に12,000mを越える総距離になりました。
しかし、昭和47年のミカン大暴落以降、後継者もいなくなり、ミカン園の荒廃も進んでかなりの面積を占めるようになってきました。特に平成元年に実施されたミカンの減反政策により多くのミカン園が廃園となりました。

それから約40年、農道そのものは市に移管され、広瀬土地改良区は農道の管理組合になりました。
現在の一番の問題は、先人たちが将来の為に造った農道でしたが、これを利用する農家そのものが10軒程度になってしまった事です。時代の流れとはいえ、この変化の激しさには驚くばかりです。
<農道関連のファイルはこちら>

2018年1月30日火曜日

広瀨ジオラマ

西側の山からの広瀨
地図の入手

平成13年3月から9月にかけ、ほぼ毎晩の作業で作り上げた広瀨の立体地形モデルです。

前々から作ってみたいと思ってはいたものの、詳細な(大縮尺)の地図が無いために手を付けられないままでした。

ある時、市役所の都市計画課に行けば2500分の1の地図があると聞き、ダメモトで行って見たところあっけない程簡単に地図が手に入りました。

この地図をコピーセンターに持ち込み、必要なところだけをA0の用紙一杯にコピーして貰い、ここからが本格的な広瀨ジオラマの製作となりました。

スチロールの入手とカット

まずは知り合いの発砲スチロールの工場で大きさはA0、厚さ10ミリで30枚切って貰いました。
予定しているジオラマの範囲内で一番高い標高は310m最低部で30m程でしたから、標高10mを10mmとすれば30枚あれば十分足りるはずです。

A0の地図に10m事の等高線を分かるように赤線にしてこの線をスチロール板に写し、この各等高線事に切ったスチロールを積み重ねていけば自然に広瀨の地形が出来上がっていきます。

高さは縮尺千分の1、水平方向は縮尺1350分の1になり、縦方向へ少しデフォルメされた形になります。
この水平、垂直方向の比を「比高」と言うのだそうですが、広瀨のモデルの場合は比高1.35という事になります。
これくらいの比高でいつも見慣れている風景のイメージに近くなりました。
比高1.0では山の感じが岡のように見えてしまい、見慣れた景色とはイメージが変わってしまいます。
富士山は高い山ですが、朝霧高原から御殿場駅までの距離はおおよそ34Kmあります。
この中に富士山頂がありますが、高さは3.776Km。
立体地形モデルを作ろうとしたら富士山の高さは距離の十分の一程度しか無い事になります。
やはりそれなりに見えるようにするには高さを少しだけ誇張するほうが良いようです。
広瀨のモデルの場合はこの点は考えてやったわけではなく、たまたまスチロールの厚さは10mを1cmに、横方向は紙の大きさのA0、とこの2つの関係で比高1.35になったと言うわけです。

等高線毎に積み重ねる

この積み重ねた段々を紙粘土で埋めて曲線にし、表面をなめらかにするために、ここからはサフェーサーを吹きつけ、これを研ぐ、といった作業の繰り返しです。これを20回ほど繰り返したら大分滑らかな曲面になりました。

道路を削り家を造る

つぎは道路をルーターで削り、全体に着色し、宅地部分には土を敷き(鉄道模型用の土)草(鉄道模型用のスポンジを難色か混ぜ、これをミキサーで荒く挽いた物)や、木(スポンジを千切った物)を植栽すればあとは建物の製作になります。これは一軒一軒写真を撮り、これから窓やドアー、屋根もそれなりに作っていきました。 かなり細かい作業が続きますが、毎晩が楽しい時間でした。

家の配置とケース作り

最終的には百数十個の建物を配置し、ケースもアクリル板で自作。この台は地元の大工さんが寄付してくれました。

今、改めて見てみると、旨く作ったものだと自画自賛。

ただ、悲しい事は、この時一緒に作った相棒が若くして逝ってしまった事です。
今、自治会館に展示されているこの立体模型を見るたびに、彼と夢中になって作っていた時の楽しかったあの半年間を思いだします。

2018年1月26日金曜日

庵原駅伝大会

中学校グランドをスタート、ゴールにしていた頃のスタート風景
庵原地区で毎年行われている駅伝大会のタイム集計です。
1998年から2018年までの20年分を保存してあります。

この駅伝大会も今年(2018)で27回となっていますから、第1回大会は1991年になります。
最初の頃の7回分の資料は残念ながら欠けてしまっています。
自分が集計に携わったのは1996年の大会からだったので、自分が集計した分の中では2回分が欠けています。
これは最初の2年間はLotus 123 を使った集計だったためにデータが何処かに行ってしまったようです。

スタートとゴールになるメイン会場も2017年からは、それまでの中学校グランドから庵原球場に変わっています。

残念な事にこの3年ほどは広瀨チームは棄権となってしまっています。また何とか選手を集めて参加してほしいものです。

せまいがひろせ

広瀨洒落倶楽部(ひろせしゃらくらぶ)で2000年の5月から2010年の5月までの10年間発行したミニコミ誌です。

A3版裏表2面の紙面で、年間5回のペースで発行していましたが50号をもって休刊となりました。

その後1年のブランクをおき、広瀨に嫁いで来た若い?奥さん方により2011年2月に51号として復刊しました。しかし、忙しい身の女性でもある事から、52号で再び休刊となり現在に至っています。

一時は100号までを目指した「せまいがひろせ」でしたが、やはり後継者が出てきてくれない事には継続は難しいものになってしまいます。

この「せまいがひろせ」の全号をpdf化して公開しています。

このフォルダにある "s-idx.xls"は全号の発行年と見出しのインデックスファイル(EXCEL)です。

「せまいがひろせ」閲覧はこちら


2018年1月23日火曜日

広瀨写真クラブ

秋まつりでの吾亦紅との共同作品展示

広瀨地区には句会があるのは紹介しましたが、もう一つ「広瀨写真クラブ」という会があります。
この発足年はあまり記憶に無いのですが、2005年頃ではなかったかと思います。当初は女性会員も含め10人程の会員がいましたが、現在アクティブ会員は7人。うち2名は地区外の会員です。

月一回の例会を行い、この時に課題に沿った作品を持ち寄り「あーでもない、こーでもない」と皆で勝手な評をして楽しんでいます。

課題を決めるとなかなか撮るのも難しくなりますが、同じ課題で人の作品と較べられるのは、見方によって随分と捉え方も違うものだと、これは結構勉強になります。
とは言ってももう皆さん高齢者、分かってもなかなかそれが実行に結びつかないもどかしさも感じてしまいます。

でもまぁ、楽しんでやっていけるのが一番でしょう。

また、年に1,2回、外に出掛けての撮影会も行っています。




句会「吾亦紅」

秋まつりでの作品の展示
広瀨地区には平成17年に発足した「吾亦紅」という句会があります。

平成16年に広瀨に越して来られた方が俳句の先生という事を聞き、当初は当時発行していた地区のミニコミ誌「せまいがひろせ」への俳句の記事をお願いしたのが句会発足のきっかけとなりました。

「どうせなら句会を作りましょう」という事で、平成17年にはこの方の主宰で「吾亦紅」が発足し、毎月一回の句会を行ってきました。

これは発足から13年目となる今でも継続して行われています。また、秋のお祭りの時には作品の展示等も行っています。

句会の名前「吾亦紅」は主宰に付けて頂いたものと記憶しています。
吾亦紅の花は地味で目立つようなものではありませんが、「吾もこうありたい」という思いを込めて名付けられた花名といわれています。」

発足当初は20人近い会員がいた句会「吾亦紅」でしたが、当初より会員は高齢な方が多く、年と共に会員数も減少してきています。

最近では地区外から参加している会員の方が多く、広瀨地区内の会員は先細り状態ですが、継続して活動していてくれればそのうち、歳をとった地区内の人達がまた会員になってくれるのかも知れません。

それまで主宰には何とか頑張って欲しいと思います。
「せまいがひろせ」が発行されている間、句会報はこの紙面に掲載していましたが、これが休刊となってからの句会報は主宰から全回分を提供して頂き、データベースに保存しました。